HINO

完走が難しいダカール・ラリー。
だから36年続けてきた。

情報が得難い時代に見つけたロマン

乾き切った大地が延々と続く広大な砂漠や、酸素が恋しくなる標高5000m級の山岳地帯。それらに一度も身を置いたことがない我々には、男がなぜ人生のほぼ半分に相当する年月を「世界一過酷なラリー」に捧げてきたのか、本質的に理解することはできないかもしれない。しかしそれでもなお、レジェンドが歩んできた道筋に惹かれてしまうのは、刻まれた轍に彼の熱い想いが宿っているからだろう。

菅原義正、御年78歳。1941年5月31日生まれの義正は、当時41歳だった1983年にバイクでパリ・アルジェ・ダカール・ラリー(いわゆるパリダカ)に初出場。翌年の二輪部門再挑戦と翌々年の四輪部門ナビゲーターを経て、1986年から四輪ドライバーとしてパリダカに挑戦し、1992年から日野レンジャーでトラック部門に参戦を続けてきた。

「現代のようにLINEやインターネットなんてない時代。とあるオートバイ雑誌で、パリを出発してアフリカの国々をつないでダカールを目指す壮大なレースがあることを初めて知り、とにかく興味を持ちました。なにせ、情報を得る手段がほとんどありませんから、レース中の出入国はどうするんだろうとか、いつどこで現地通貨の両替しているんだろう……とか。そもそも、ダカールという場所に行ってみたかったですし、レースをしながら国を旅するということに深くロマンを感じたんです」

『トラントシス』で味わう敗北感

しかし初参戦のパリダカで味わったのは、レースを走ること以前の挫折だった。

「まずそもそも、フランス語のヒアリングができないから、自分が呼ばれていることすら気づかない。ゼッケンは36番で、フランス語では『トラントシス』と発音するのですが、これを忘れないよう燃料タンクにマジックで書いておいたのに、それでもアナウンスを聞き逃す。これじゃあまったくお話にならないということがわかり、納得できるようどんなことがあっても10年間は参戦を続けようと決意したんです」

義正がパリダカを初完走したのは、参戦4年目のこと。四輪ドライバーとして挑戦した初年度だった。以降、1991年の総合23位を最高位に完走4回。そして10年目の1992年、義正は当初の予定どおり、これを最後にパリダカから身を引くつもりでいた。しかし実際にはこの参戦こそが、“鉄人・義正”の伝説にとってもうひとつのプロローグとなった。