レースレポート 1992年

パリダカ挑戦2年目で4台すべてがトップ10入りを果たす
1992年 PARIS-SIRTE-LE CAP

1992

「エキップ・カミオン・HINO」の2年目の挑戦には、パリから喜望峰を目指すアフリカ大陸縦断という、前例のない過酷な舞台が用意された。底冷えのする真冬のパリ、容赦なく砂嵐が吹き荒れる砂丘地帯、40度を超す灼熱のジャングルなど、大自然の驚異はめまぐるしく姿を変えながら冒険者たちに襲いかかる。赤道を越えて争われるラリーの走行距離は実に13,000kmに及ぶ。この前人未踏のラリーに前年と同じ4台の日野クルージングレンジャーが挑んだが、その中に日本人初のカミオンドライバー・菅原義正の名が新たに加わった。

それぞれ緑、青、黄色、赤のゼブラカラーに彩られたレンジャーは、前回のデーターをもとに大幅な改良が施され、出だしから2号車が3位につけるなど好調な滑り出しを見せた。レンジャーは砂漠地帯に入っても好調を持続。他チームのカミオンがトラブルを抱えるなか、大きなトラブルもなく4台揃っての快走が続いた。

常に南を目指すラリーは赤道付近にさしかかるとコースが一変。中盤以降はジャングルの中に続く一本道での争いとなり、抜くに抜けない我慢の展開に。そのような中、レンジャーは持ち前の機動力を発揮し、SSでワンツーフィニッシュを飾るなどの活躍を見せた。しかし好調を持続するレンジャーにパリダカの魔の手が忍び寄る。それまで4位につけていた2号車のトランスミッションにトラブルが発生。やむなくサポート的役割の3号車のミッションと交換し、2号車は事なきを得るが、3号車はゴールまで1速と6速しか使えないミッションで乗り切らなくてはならない。それでも3号車のドライバーであるプティは職人技を見せ、1、6速のみで他の3台とほとんど変わらないタイムを叩き出す。一方、初出場の菅原も終盤のSSでトップタイムをマークし存在感をアピール。他チームもレンジャーの進化の早さに驚きを隠せなかったようだ。そして、ケープタウンのゴールにゼブラカラーの4台が到着。カミオンの強豪ペルリーニ、タトラには後塵を拝したが、前年を上回る成績で4台すべてがトップ10に入る好成績を上げた。

チーム「Equipe Camion HINO」

総監督:鈴木孝
総括:天野俊樹
監督:平井光明
1号車 J-P.ジョッソー(フランス)/柴田英樹
2号車 J-P.ライフ/J.ダインホッファー(オーストリア)
3号車 J.プティ/A.デュバック(ベルギー)
4号車 菅原義正/羽村勝美
他、総勢31名。

この表は横にスクロールできます

順位 ゼッケン ドライバー 車種
1 501 ペルリーニ ペルリーニ
2 500 ウッサ ペルリーニ
3 502 ロプライス タトラ
4 510 ライフ 日野レンジャー
5 509 ジョッソー 日野レンジャー
6 512 菅原義正 日野レンジャー
7 517 ヴェルシノ メルセデス
8 504 ブシティア タトラ
9 503 カハネック タトラ
10 511 プティ 日野レンジャー

サイト内検索