レースレポート 1991年

日野クルージングレンジャー、パリダカ初参戦。初完走!
1991年 PARIS-TRIPORI-DAKAR

1991

1990年12月29日、スタート地点となったパリに集結した109台ものカミオンの中に、4台の日野レンジャーの姿が初めて並んだ。日野レンジャーの未知なる戦いが始まったのである。ゼブラカラーに彩られた「ミスターレンジャー」、「ミスレンジャー」2台を含む、4台の日野クルージングレンジャーを前にして、「エキップ・カミオン・HINO」の総監督をつとめた鈴木孝専務(日野自動車・当時)は「日野のパイオニアスピリッツをもって、完走を目指す」と力強く語った。

ルートはパリをスタートし、リビア、ニジェール、マリ、モーリタニアを経由し、セネガルのダカールに至る9,186km。21日間に及ぶ長く過酷な戦いは、未知なる砂漠でレンジャーに牙を剥くのか。それともまだ見ぬ砂漠の妖精はダカールの海岸にレンジャーを導いてくれるのか。

アフリカに上陸後、トップ10に顔を出す上々の滑り出しを見せたレンジャーだったが、序盤戦で3号車が穴に落ちるアクシデントが発生。さらに1月6日、最大の難関といわれたテネレ砂漠の砂丘越えで、2号車のドライバー・シュマランがタイヤ交換作業中に負傷して戦線を離脱。14年に渡る日野レンジャーのパリダカ挑戦の中でゴールまでたどり着けなかった車両はこの1台だけである。そして他の車両もミッションやアクスルなどにトラブルが出始め、連日連夜メカニックによる徹夜の作業が続いた。

後半戦に入り、小さなトラブルは出たものの、日野レンジャーは順調な走行を続け、最後の難関ネマ-ティシット-キファも無事クリア。そして1月18日、パリダカの挑戦者たちが夢見る栄光のゴール地・ダカールのラックロゼに日野レンジャー3台が相次いで姿をみせた。パリダカの歴史に新たに「HINO」の名前が刻まれた歴史的瞬間であった。「エキップ・カミオン・HINO」のパリダカチャレンジは1号車「ミスターレンジャー」ジョッソー/ユイネン組が7位、3号車ライフ/ダインホッファー組が10位、4号車プティ/デュバック組が14位という結果で幕を閉じた。

"Team EQUIPE CAMION HINO"

General supervisor: Takashi Suzuki
Supervisor: Mitsuaki Hirai
1st truck (Mister FT): J-P. Josseau (France)/G. Juinen (Belgium)
2nd truck (Miss FT): J-C. Chemarin (France)/Hideki Shibata
3rd truck (Hino Japan): J-P. Reif/J. Deinhofer (Austria)
4th truck: (assistant camion): J. Petit/A. Dubak (Belgium)
Total: 31

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順位 ゼッケン ドライバー 車種
1 500 ウッサ ペルリーニ
2 509 ゴルツォフ カマズ
3 510 タメンカ カマズ
4 503 ロプライス タトラ
5 504 カハネック タトラ
6 511 マルチェンコフ カマズ
7 514 ジョッソー 日野レンジャー
8 507 レオナルド メルセデス
9 519 カネラス ペガソ
10 516 ライフ 日野レンジャー
14 517 プティ 日野レンジャー

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