ダカールラリー

2014年10月21日 (No. PD15-12)

 

「“ここに日本の日野ありき”を世界にアピールしたい」
 ダカールラリー2015参戦発表会を開催

 10月16日、日野チームスガワラによる「ダカールラリー2015参戦発表会」が日野自動車の本社で開催され、2号車ドライバーの菅原照仁さんが来場した報道陣に向けて「次回大会では排気量10リッター未満クラスの6連覇はもちろんのこと、トラック部門の総合順位でも上位に食い込んで“ここに日本の日野ありき”ということを世界に向けてアピールしたい」と、熱い想いを語りました。


 ダカールラリーに参戦する車両は、完成するとすぐに開催地の南米に向けて輸送されるため、本番前に日本で公開できるのはこれが最初で最後の貴重な機会とあって、参戦発表会には多くの報道陣が来場しました。冒頭、日野自動車の市橋社長が商用車メーカーとして「世界一過酷」と言われるダカールラリーに挑戦を続ける意義を語り、続いて2号車ドライバーの菅原照仁さんが2015年大会のコースの特徴と車両の改良点について説明。その後、ナビゲーターを代表して新たにチームに加わった若林葉子さんと、メカニックを代表して広島日野自動車の益田崇史さんがそれぞれ意気込みを語り、最後にチーム代表兼1号車ドライバーで大会最多の32回連続参戦記録を持つ「ダカールの鉄人」こと菅原義正さんが決意表明を行いました。

 


日野自動車 市橋保彦社長 「過酷なラリーで車づくりとサービス技術を鍛え続ける」

 日野自動車が1991年に日本のトラックメーカーとして初めてダカールラリーに参戦して以来、この世界一過酷なレースに挑み続けて2015年大会が25周年になります。私たちが作っているトラックやバスは、世界中で人や物を目的地まで運んで人々の生活を支えていますが、その役割を果たすためにはQDR、即ち品質・耐久性・信頼性の優れたクルマをつくることは勿論のこと、お客様の稼働を止めないサービスの提供も重要です。ダカールラリーに挑戦を続けることは、この役割を果たすためにクルマづくりとサービスの技術力を鍛えることにつながるのです。また、今回新たに若林さんという女性がチームのメンバーに加わったことで、彼女の活躍ぶりを見た女性や若者が、トラックに携わる仕事に憧れや誇りを持ってもらえればと思います。実は、私は来年1月に初めてアルゼンチンのゴールに行くことにしました。日野グループの代表として、世界一過酷なラリーを戦い抜いたメンバーの奮闘を称えるとともに、その感動を分かち合えるのを今からとても楽しみにしています。

 


2号車ドライバー 菅原照仁さん 「“ここに日本の日野ありき”を世界にアピールしたい」

 次回大会は、2009年にアフリカから南米に舞台を移して最初の大会と同様に、ブエノスアイレスから始まって同じ場所に帰ってくる周回コースとなりますが、このようなコース設定の場合アンデス山脈を2回超えることになります。これは車にとっても人にとっても大変過酷な戦いで、4700mという非常に標高の高いところで競争をするのがアフリカと違うところです。また、山脈沿いにアタカマ砂漠という何百年も雨が降ってない、世界一乾燥していると言われる地帯があるのですが、標高0mから1600mまでずっと大きな砂丘を登り続けるような走りも強いられます。車の改良点としては3つのトピックスがあり、1つめは自分が運転する2号車が完全な新型として製作され、ナローキャブを搭載して軽量化をはかるとともに、現地に合わせて左ハンドル化したことです。2つめは、前回大会でテストを兼ねて1号車に搭載した、今までのJ08Cより排気量が1リッター大きいA09Cというエンジンを、2号車にも搭載したことです。吸排気系を見直し、より空気がエンジンに入るようにチューニングしたことで、J08Cの485馬力から630馬力にパワーアップしました。3つめは、足回り=サスペンションを大幅に改善したことです。ダカールラリーでは「道なき道」を走るので、オフロードの悪路に対応するためにあえて古いタイプのマルチリーフ=板バネのサスペンションを使っていたのですが、最近はショックアブソーバーなどの性能が上がっているので、ショックアブソーバーにコイルスプリングを付けて、さらに板バネは枚数を減らしたテーパーリーフサスペンションという現代的な技術を取り入れました。わかりやすく言えばコイルスプリングとリーフスプリングの「いいとこどり」をして、どのような路面でも安定した走りを実現できるようになりました。足回りを変えるのは大きなリスクがあるので、当初は新しいサスペンションの開発に2~3年かかると思っていたのですが、テスト走行を兼ねて参戦した今年のラリーモンゴリアでは、ほぼ完ぺきに近い仕上がりでしたので、日野自動車の開発陣と1年弱という短期間で開発できたのはとても心強く感じています。車は毎年少しずつよくなっていますが、エンジンに加えてサスペンションの進化は劇的で、今までと比較にならないくらい速いトラックに仕上がっています。次回大会では、排気量10リッター未満クラスの6連覇はもちろん、トラック部門の総合順位でも上位に食い込んで“ここに日本の日野ありき”ということを世界に向けてアピールして、このラリーに注目しているすべての人々に我々の進化のほどを見せつけたい。

 


1号車ナビゲーター 若林葉子さん 「いい意味でムードメーカーになれるように頑張ります」

 この度、1号車のナビゲーターとしてチームに加えていただきました。チーム強化のための増員ということですので、ナビゲーターとして、とにかく「すべての行動はドライバーのため」「1分でも速く走るため」という目的意識をもって臨んでまいります。それ以外にも、私は会社でよく社長から「若林さんが笑っているとみんな安心するんだよ」と言われるので、女性が空気をつくるということはあると考えています。ですので、本番中はずっと笑顔でいたいなと思っています。辛いときは辛いときなりに、自分自身が悪い空気に呑まれず、いい意味でムードメーカーになれるように頑張りますので、どうぞよろしくお願いいたします。

 


メカニック 益田崇史さん 「家族や同僚の想いに応えるために“全力整備”で頑張る」

 私たち日野のメカニックにとって、ダカールラリーのメカニックは夢でもあり目標でもありますので、今回選出されてとてもうれしく思っています。これまでに、世界の舞台で戦ってきた販売会社のメカニックは30人以上いますが、広島日野にはそのうち4人の先輩がいますので、私は入社してからずっと「いつか先輩たちのようにダカールの舞台に立ちたい」と思って必死に腕を磨いてきました。今、本番に向けて準備を進めていますが、改めて先輩たちが築いてきた伝統と背負ってきた重圧を、ひしひしと感じています。2015年大会では、2台の日野レンジャーを完走させ総合上位への入賞を果たすことで、先輩たちが築いてきた日野のメカニックの「技」をしっかりと守っていくとともに、今回の私の挑戦を応援してくれている家族や会社の同僚の想いに応えるためにも、メカニック全員で“全力整備”で頑張りますので、ご声援のほどをよろしくお願いします。

 


チーム代表兼1号車ドライバー 菅原義正さん 「日野という輪のなかで“一本の矢”になって戦いたい」

 次回の大会は、日野がダカールラリーに挑戦を続けて25年目になりますが、実は1991年に初めて参戦した時に主催者から「日本のメーカーは2~3年出て、宣伝に使ったらさっさと止めてしまうのだろう」と言われたので、私は「日野は違う。日野は挑戦を続ける会社だ」と言いました。また、次回は自分が参戦して33回目の大会でもありますので、長い間我々を支えてくださった皆さんの想いをしっかり受け止めて走ってきたいと思っています。新しく完成した車は、息子の照仁が運転する2号車がナローキャブになり、父親の私が運転する1号車はワイドキャブで3人乗りなので、親のほうが堂々としていて子供のほうが少し小さく、きちんと棲み分けができています(笑)。今回は、メカニックの皆さんが最初からずっと製作に携わっていて、ここまで車を熟知したメカニックはいないと思いますので、彼らの活躍にもご期待ください。他にも(HINO700 Seriesの)ZSという3軸の大きなトラックがあり、発電機、コンプレッサー、スペアパーツなどを積んで走ります。夜にはその車が作業場になって、照明をあてて朝まで作業を行います。さらに、メカニックが移動するためのハイラックスが2台あり、これらのサポートカーのドライバーもいます。チームとして現地に赴くのは、スタッフも加えて18人になりますが、それぞれ役割は違うけれど日野という輪のなかで“一本の矢”になって相手を突き倒すように戦いたい。我々は、車も日本製ならドライバーもスタッフも日本人という、ダカールラリーで唯一の“純国産チーム”ですので、日本人として誇りを持って臨みたい。他の国のチームから「今年の日野はやるな!」と言われるように一生懸命頑張りますので、どうぞ応援のほどをよろしくお願いします。

 


 同日の夜、協賛会社や日野グループの社員が出席して日野チームスガワラの壮行会が開催され、日野自動車の社員有志によるブラスバンドの生演奏などが行われて、一層応援ムードが盛り上がりました。会の最後に日野自動車の久田常務役員が「ここにいる全員が心を一つにして日野チームスガワラを応援したい。皆さんの一番大きな声で、力強く応援のエールを送りましょう」と切り出し、出席者が一丸となった「エイエイオー」の掛け声が会場の外まで響き渡った後、ブラスバンドの演奏に合わせて全員から手拍子が沸き起こり、星が瞬き始めた夜空に向けていつ果てるともなく続いていました。